写真で振り返る大会






仏紀 2570年 6月18日(木)~19日(金)
第四十三回 日韓・韓日仏教文化交流大会会場:天台宗総本山比叡山延暦寺
主催:日韓仏教交流協議会後援:㈶全日本仏教会
| 大会総裁 | 藤 光賢 天台座主 |
| 大会副総裁 | 杉谷義純 妙法院門主 |
| 大会顧問 | 西郊良光 曼殊院門主 南澤道人 永平寺貫首 伊藤海祐 本門寺貫首 |
| 大会長 | 藤田隆乗 日韓仏教交流協議会会長 |
| 大会副会長 | 細野舜海 天台宗宗務総長 獅子王圓明 延暦寺執行 柴田哲彦 光明寺法主 野坂法行 日韓仏教交流協議会常任理事 |
| 大会委員長 | 戸松義晴 日韓仏教交流協議会理事長 江連俊裕 日韓仏教交流協議会副理事長 小寺照依 延暦寺法務部長 小森文道 延暦寺総務部長 奥村恵弘 延暦寺法務部事務長 |
| 実行委員長 | 小峰立丸 日韓仏教交流協議会監事 |
| 実行副委員長 | 菅野宏紹 日韓仏教交流協議会常任理事 西郊良貴 日韓仏教交流協議会理事 |
| 事務局長 | 佐藤隆一 日韓仏教交流協議会事務総長 |
| 事務局次長 | 志鳥融禅 日韓仏教交流協議会理事 |
| 総務 | 大西晶允 日韓仏教交流協議会常任理事 畑 信行 日韓仏教交流協議会常任理事 鈴木利枝子 日韓仏教交流協議会理事・通訳 |
大会スケジュール
6月18日(木)
| 時間 | 会場 | 行事 |
|---|---|---|
| 15:00 | 延暦寺会館1階 瑞峰の間 | 開会式 |
| 15:20 | 延暦寺会館1階 瑞峰の間 | 学術大会 |
| 17:00 | 日韓役員は待機 延暦寺会館2階 役員以外は全員歓迎晩餐会会場へ移動 | 待機・移動 |
| 17:20 | 2階 比叡の間 | 歓迎晩餐会 |
| 19:30 | 2階 比叡の間 | 閉会 |
6月19日(金)
| 時間 | 会場 | 行事 |
|---|---|---|
| 6:30 | 大講堂 | 朝勤行 |
| 7:30 | 食堂 | 朝食 |
| 8:30 | 荷物を「樹林の間」に移動 | チェックアウト |
| 9:00 | 延暦寺会館出発 | 諸堂参拝 |
| 10:30 | 「樹林の間」 | 着換え |
| 10:45 | 会館前 | 隊列を組んで進発 |
| 11:00 | 大講堂 | 世界平和祈念法要 |
| 11:30 | 大講堂前 | 記念撮影 |
| 12:00 | 望湖 | 昼食 |
18日詳細日程表
開会式次第
司会:西郊良貴理事
通訳:安勝熙 氏
| 開会の辞 | 小峰立丸 監事 |
| 歓迎の辞 | 西郊良光 大会顧問・曼殊院門主 |
| 挨 拶 | 曹渓宗宗会議長 宙耕(ジュキョン)副会長 |
| 総裁挨拶 | 第二五九世天台座主 藤光賢 猊下 代読:延暦寺執行 細野舜海 台下 |
学術大会
テーマ「現代における信と行」
司会:西郊良貴理事
通訳:安勝熙 氏
| 発表者 | 金月道 師(キム・ウォルド、本会常任理事、大韓仏教天台宗 総務部長) 光永圓道 大阿闍梨(比叡山麓覚性律庵住職) |
共同宣言文
韓日仏教文化交流協議会:事務総長 明岸
日韓仏教交流協議会:事務総長 佐藤隆一
歓迎晩餐会
司会:大西晶允 理事
通訳:鈴木利枝子 氏
| 挨拶 | 日韓仏教交流協議会 藤田隆乗 会長 |
| 挨拶 | 韓日仏教文化交流協会 真愚 会長 |
| 記念品交換 | |
| 挨拶 | 比叡山延暦寺執行 獅子王圓明 台下 |
| 挨拶 | 韓日仏教文化交流協会 常眞 理事長 |
| 挨拶 | 天台宗宗務総長 細野舜海 台下 |
| 挨拶 | 韓日仏教文化交流協会 能元 副会長 |
| 役員紹介 | |
| 乾杯辞 | 全日本仏教会 中村見自 理事長 |
19日詳細日程表
世界平和祈念法要
司会:佐藤隆一 事務局長
通訳:安勝熙 氏
| 表白文 | 大導師 |
| 祝願文 | 韓日仏教文化協会 道覚 副会長 |
| 祝辞 | 韓日仏教文化協会 真愚 会長 |
| 挨拶 | 韓日仏教文化交流協議会 禄敬 副会長 |
| 謝辞 | 日韓仏教交流協議会理事長・大会委員長 戸松義晴 |
| 閉会の辞 | 日韓仏教交流協議会事務総長 佐藤隆一 |
「現代における信と行」
発表者:北嶺大行満大阿闍梨 光永圓道
回峰行は比叡山で約千百年続いている伝統ある修行であり、比叡山の最も南に所在する回峰行の根本道場である無動寺谷明王堂を建立された相応和尚によって創立され、相応和尚が十五歳で登叡され、延暦寺の総本堂である根本中堂の薬師如来に六年から七年かけて花を供え続けた(供華)ことから始まります。相応和尚は『妙法蓮華経』の七巻目の第二十品「常不軽菩薩品」の「不専読誦 但行礼拝」の部分、お経を読むことを専らとせず、ただ礼拝を行ず。一切を拝むというのが常不軽菩薩です。仏教の根底は仏性、すべてのものの持っている仏性を拝む。そういう点に相応和尚は深く感銘を受けたと言われています。
そこから時代は流れ、鎌倉時代には回峰行の教科書的な「手文」から比叡山の山上山下の巡拝作法が整ってきたとされています。『北嶺行門記』には1751年の比叡山焼き討ち後、一千日を以て大行満とすることとの記述から千日回峰行として現在の形態になったとされています。
不動明王を本尊とする無動寺谷明王堂を拠点とし、夜中巡拝に出発し東塔、西塔、横川そして琵琶湖側の麓、日吉大社、門前町の坂本を巡り、朝、無動寺谷に戻ります。回峰行は修行するだけでなく、普段、人が就寝中の時間に修行をして、昼間はお寺での日常生活になります。そういう意味では睡眠時間を削り、回峰行を行う事になります。
回峰行は歩くのに重きをおかれがちですが、巡拝する(花を供える)のが目的であり、歩くというのは巡拝するための手段と考えられます。
千日回峰行は千日間続けて巡拝する訳ではなく、一百日を区切りに、年間百日もしくは二百日の巡拝を約七年、三月下旬を目安に修行が始まりますがその修行の間は雨雪が降っていても台風が上陸し天候が悪くても、体調が悪くても休むことが許されてなく、途中で断念するときは自害しないといけない厳しい掟があります。
修行中、装束は生命をかけての修行になるので浄衣(白装束)、手甲、脚絆を着け、蓮華草鞋を履きますが、三百日までは素足に草鞋、四百日からは足袋を履くことが許されます。また未敷蓮華を表す蓮華笠を三百日まで左手に持ち、四百日から頭にいただくことが許されます。そして杖は六百日目から使うことが許され、また自害用の短刀、死出紐、手巾を携帯して行います。皆様がイメージされている姿で修行するのは六百日以降ということになります。
時代が変わっても昔から変わらない装束になるので、ある意味、時代を追うごとに順応する能力も必要になっていると思われます。
七百日までは山上山下の巡拝(七里半)は自分のための修行(自利行)をしますが、七里半というのは距離での意味ではなく、仏教での悟りを開くための実践項目「八正道」の「八」の一歩手前、完全な悟りに至るための過程(修行中)であることを意味します。
その百日の間、七十五日を目安に「京都切廻り」があります。先ほど自利行とはいいましたが百日の中の一日だけは、京都の街を廻って人々の済度を願う化他の行をさせてもらいます。京都の街を廻る日は山上山下の巡拝は出来ませんので、その前日に逆回りと言って二回、山を廻ります。一回山を廻って、直ぐに逆に山を廻ることになります。
その後、回峰行の根本道場である無動寺谷明王堂に断食断水不眠不臥で九日間籠る「堂入り」の儀式があります。「堂入り」は本来、釈尊が悟りを開いた時の追体験の行であり、たとえば禅宗ならば釈尊が悟りを開いたとされる十二月八日に合わせて、朔日から足かけ八日間、座禅を行う臘八の大摂心が行われます。一般的には断食断水では一週間が限界といわれており、途中で亡くなる可能性が高いので、明王堂に籠る前に、「斉食儀」(生き葬式)をし、今生の別れの食事を取ります。
九日後の堂入り満行後、阿闍梨となり再誕し以後、自利行に加え、衆生済度の「化他行」に進むことになります。その間、本尊不動明王の真言を十万遍(一洛叉)唱え、夜中に明王堂から約二百メートル離れた閼伽井に不動明王にお供えする水を汲みに行きます。
実際、私が堂入りさせていただいた九日間で体重が十二キロ落ちました。何代か前の阿闍梨様の著書のなかに「線香の灰が落ちる音が聞こえた」と書いてあったのを覚えています。堂入りの期間中、断食断水の状態で徐々に自分自身の感覚(五感)が鋭くなっていくのを実感します。これは行者の問題ではなく誰でも断食だけ何日か実践すればできることだと思われます.その際、線香の灰の落ちる音を聴く絶好の機会と思ったわけです。
本来、山上山下の巡拝中はいろいろな事を考えながら、注意しながらでないと出来ない「動」行ではありますが、逆に「堂入り」では一心に不動明王を念じている以上、考えること思い浮かぶことが欲・煩悩であり、それらは頭の中で消去しつづける「静」の修行になります。先ほど線香の灰の落ちる音を聴く絶好の機会と思ったというのは堂入りの期間中での欲の一つと思ってもらえたら結構です。
実際、線香を見つめながらお勤めしていたわけですが聞くことが叶いませんでした。その時に「聞こうとしていること自体が執着なのだ。」と気づきました。意識をもつことは決して悪いことではありません。「意識すれば存在し、それが現実になる。」とよく言われます。しかし私は感覚を超越するのに必要なのは無意識の領域ではないかと感じたわけです。
八百日目は山上山下の巡拝に加え、比叡山の京都側の麓、「赤山禅院」までの巡拝(自利行の七里半、化他行の七里半で十五里)、九百日目はそれに加え京都の洛中洛外の神社仏閣を巡拝する京都大廻り(七里半の約三倍、身命を賭しての化他行、二十一里)、千日目は「大行満大阿闍梨」となります。二十五日残すことによって一生涯かけて修行するという意味がこめられています。
千日回峰行を満行すると、京都御所に参内することが許される「土足参内」という儀式があります。平安時代初期、清和天皇(文徳天皇ともいわれる)の女御(皇后陛下)が病気になられた際、京都の僧では手に負えず、相応和尚が当時の天台座主である慈覚大師円仁に連れられて京都御所の中に草鞋履きのまま参内し、祈願して病気を治されたのが始まりとされています。
現在でも千日回峰行を満行した大行満大阿闍梨は天台座主猊下とともに行列を組み、京都御所に参内します。
千日回峰行と同等なくらい大事な修行として「葛川夏安居」があります。毎年七月十六日から二十日までの五日間、比叡山から三十キロほど北にある葛川明王院に籠ってお勤めをさせていただく行です。
この葛川明王院は、回峰行の祖・相応和尚が一切の穀類を絶って三年間の草庵参籠中に不動明王を感得されたという有難い謂れの場所です。
ですから、葛川夏安居は相応和尚の足跡をたどる行になります。回峰行者が毎年約四十人前後集まり参籠します。内容を口外するわけにはいきませんが、十八日の晩「太鼓廻し」という相応和尚が不動明王を感得されたときの追体験をする行事があります。提灯の灯りだけの中、二百キロある大太鼓をガッタンガッタン上下で回す、いわば太鼓が滝に見立てられて、その周りを地元の村の人々が竹のササラを持ってワサワサと鳴らし、滝の飛沫の音を表現します。そして不動明王を感得して行者が太鼓の上から飛び降りるという行事です。
行者にとっては修行になりますが、地元の村の人々にとっては豊作祈願のお祭りになります。それぞれ目的がずれているように思われますが、行者、村の人々が一体となって行われる昔から続く大事な宗教行事になります。
私はこの千日回峰行を十七年前に満行していますが、比叡山の焼き討ち以降、約四百五十年の記録で千日回峰行を満行した行者は、五十一人になり、私は五十人目の大行満大阿闍梨になります。そして今、回峰行四百日の行者が修行中であり、現在でも長き伝統が引き継がれ続けています。仮定での話になりますが、順調にいけば来年の十月に「堂入り」を迎えることになります。
修行、そして日常生活に共通していえることかもしれませんが「解行双修」という言葉があります。まず、物事を習い行う実践する。そして物事の核心を理解する。その二つが揃って修行である。
今まで説明してきたところは、あくまでも回峰行の実践です。
基本的に千日回峰行を満行すると、根本道場の明王堂輪番として本尊不動明王の御給仕になり、そして回峰行者の指導を行う役になります。そこから回峰行の実践者から言葉で伝える指導役になります。
比叡山の開祖伝教大師最澄は『山家学生式』に「能く行い能く言うは国の宝なり」と記されているように実践する、そして理解して伝えることの大事さを説かれています。
回峰行の巡拝は基本ひとりで行います。細かいことを言い出すとキリが無いですが、極論をいうと七百日まで修行生活は一人でも成立すると思います。「堂入り」から千日回峰行満行までは必ず僧侶に限らず一般の人たちからのサポートを受けないと成り立たない修行になります。
サポートを受けるには、ただ修行に励むだけでなく、周りの方々が修行に関わりやすい環境を作るのも大事になると思います。
伝教大師は「自ずから 住めば持戒のこの山は 誠なる哉 依身より依所」という歌を詠まれています。修行には自分自身が正しくあろうとすることが大切ではありますが、それよりも修行する環境がもっと重要であり、環境が整っていれば住んでいるだけで自ずから戒律を守ることができ、自分自身が清らかになる。という意味になります。
環境が整っていなければどれだけ努力してみても自ずから限界があることがわかり、私たちを取り巻く環境は私たち自身の鏡になります。
有難いことに回峰行は長きにわたり引き継がれてきたこともあり環境は整っていますが、行者自身の環境は自身で整えていくことが大事なことであると思います。
元々、私はお寺の生まれではなく在家の出になります。東京都で生まれ小中学校は千葉県で育ちました。得度したきっかけとしては、十二歳の時に小児喘息を患い、身体が弱く、学校を休む日が多かったです。子供でありながら自分自身の生命の危機を感じ、二十歳まで生きる自信がなく不安な日々を送っていました。
十四歳の時に比叡山での生活の話をいただき、生活環境を変える機会に藁をもすがる思いで了承して、1990年十五歳の時に比叡山で出家得度し、家を出て高校に通いながら小僧としての生活が始まりました。当時、師匠である光永覚道阿闍梨が回峰行九百日京都大廻りの修行中で何も知らない私にとっては衝撃的な光景でした。最初は回峰行を自分自身が修行することになるとは全く考えて無く別世界のことと思っていました。
比叡山で師匠のもとでの小僧生活の中で少しずつ体力がつき、自分の病気が回復していくのを感じました。
回峰行に入らせていただこうと思った一番の理由は、比叡山に来て身体が良くなったことを仏さまに感謝したいということでした。
比叡山のおかげ、力というのは目に見えるものではないのですが、そういうことのお陰で、人並みに動ける身体を頂戴した。その「御礼参り」の気持ちが、私にとっての回峰行の初心になります。
今まで千日回峰行を満行された阿闍梨様方でも行じるという方向性は一緒でも、行に入るきっかけは、人それぞれ、皆違うものだろうと思います。
そして二十四歳の時に回峰行初百日をさせていただくことができました。二十八歳から十二年間籠山行、回峰行二百日以降、三十四歳で千日回峰行を満行し、十二年籠山行は四十歳で遂行しました。
十二年籠山行は、現在、伝教大師の御廟所、浄土院での十二年籠山行とは少し違い、回峰行に関連すること以外では一切下山することが許されない行です。余談になりますが、自身の運転免許証の更新も行けないので籠山を終えてから取得し直しました。
今となっては小児喘息の発作はほぼ出ること無く、端から見たら普通の健康体に見えますが、私が子供の頃に感じた生命の危機があったからこそ生命がけの修行である回峰行に取り組めたのではないかと思っています。
私の心の中での信仰とは比叡山での修行生活で人並みに生き続けることができた「御礼参り」、そして千日回峰行の消化出来ていない二十五日分を一生かけて、自利化他の行を人々に対して、また仏様に仕えることなのかと思います。
「現代における信と行」
発表者:金月道(キム・ウォルド、本会常任理事、大韓仏教天台宗 総務部長)
今大会にご臨席の日韓両国全ての仏教徒の皆様に、深く御礼のご挨拶を申し上げます。
悠久の歴史と清浄な修行の伝統が今なお息づく比叡山延暦寺において、第43回日韓仏教文化交流大会を迎えられますことをこの上なき光栄と存じます。両国の深き法縁が、かくも尊き道場において今再び結ばれましたこと、その縁の重みをあらためて胸深く刻む思いでございます。
一、信と行の乖離 ― 私たちの時代の宗教的風景
私たちは仏陀の教えを実に多く学んでまいりました。無所有の智慧を聞き、解脱の意味を心に刻み、慈悲を実践しようと幾度も誓願してきました。しかし、いざ法堂の門を出て日常へと戻れば、その教えは現実という厚い壁の前で、しばしば歩みを止めてしまうのです。
職場と家庭、生計の営みと人との関わり ― この現実の重みの前で、“信”はたしかにありながらも、“行”がなかなか伴いません。信と行とが、いつしか別々に分かれてしまうのです。頭では手放すことを説きながらも、手はなお多くを握りしめようとし、口では慈悲を語りながらも、足はまず己の利益へと向かって動いてしまいます。
これは決して、個人の意志が弱いゆえだけではございません。むしろ物質文明の巨大な圧力のなかで、仏教の価値をそのまま生活へと移すことがますます難しくなっている、私たちの時代の率直な現実と申せましょう。果てなき競争と所有の欲望が美徳として崇められる社会において、空しさを離れ手放すことを説く仏陀の教えは、時にあまりに遠く、現実離れした物語のように響くこともあるのです。
ならば、このように開いてしまった信と行の隙間を、私たちはいかにして再び埋めることができるでしょうか。まさにこの問いこそ、本日みなさまとともに深く分かち合いたい話の出発点でございます。
二、迷い ― 岐路に立つ私たち
仏教において迷える衆生を指す「迷」という文字を、静かに見つめてみますと、まことに興味深いものがございます。この文字は「米」と「辶(しんにょう)」が合わさってできたものであり、あたかも四方八方に分かれた道の真ん中に立ち、どこへ行くべきか分からずきょろきょろと見回す衆生の姿を、そのまま映し出しているかのようです。
ふりかえれば、今を生きる私たちの姿がまさにこのとおりです。情報はあふれ、選びうる道は限りなく多いのに、いざどこへ向かって歩むべきかは分からぬまま、ただ慌ただしく動いているばかりです。手のひらの小さな機械ひとつに、世のすべての知識が収められていると言われますが、そのなかで私たちはかえって道を見失い、迷い続けているのかもしれません。
まさにこの迷いのなかで、信とはいったい何でありましょうか。信とは、その岐路の上で目的地を明るく照らし出す一筋の光であります。今、自分がどこへ向かうべきかを教えてくれる、心のなかの羅針盤なのです。『華厳経』「賢首菩薩品」にも、「信は道の元、功徳の母なり、一切の諸々の善き法を長養す(信爲道元功德母 長養一切諸善法)」と説かれております。信があらゆる修行の第一歩であり、その根となる所以が、まさにここにあるのです。
それゆえ、方向を知らぬ実践はただの空しい歩みとなり、歩みへと移されぬ信は、灯っていながらも、ついに何ひとつ照らすことのできない灯火となってしまいます。信と行とは、もとより二つではありません。目的地を知り、そこへ向かって黙々と歩んでいくその道のりの全体こそが、すなわち信行なのであります。
三、一心三観 ― 天台が手渡す智慧
ならば、この時代において信と行を再び一つに結ぶ道は、いずこに求めることができるでしょうか。私は、わが天台の教えのうちにある一心三観に、その答えを求めたいと存じます。
一心三観と申しますと、しばしば空・仮・中の三諦という難解な形而上学的論議としてのみ受け取られがちです。天台大師が『摩訶止観』において立てられたこの教えがあまりに深く精緻であるがゆえに、ともすれば学者の思弁としてのみ見なされることもございます。しかしこれは決して、観念のうちにとどまる話ではないのです。
私たちが今まさに生きているこの現実、職場と家庭と生計の重みに満ちたこの生 ― これこそが仮の世界であります。因縁に従いしばし寄り集まっては散じてゆく、しかし今この瞬間、私たちにとってはこの上なく生々しく切実な世界です。そして仏陀が説かれた解脱と無所有、空の教えは、その現実の本来の姿を見抜かしめる、もう一つの眼なのであります。
天台の一心三観は、この二つを決して相対立するものとは見なしません。眼前の現実を否定することもなく、さりとて空の教えに背くこともいたしません。現実を生きながらもその現実に引きずられぬ道、空を知りながらも生を捨て去らぬ道 ― それこそがまさに中の位であります。この三重の真実を一心に同時に照らし観ること、それが一心三観の核心なのです。
申さば、これは現実を生きながらもその現実に埋もれることのない修行の道です。物質文明の只中に立ちながらも、それに全く振り回されることのない内なる自由と申せましょう。仮の世界のうちにあって働き、愛し、生きながらも、空の智慧によってそのすべての真の姿を忘れぬこと。天台が単なる教理の体系を超えて、生きた実践の宗教として千年を超えて受け継がれてこられた所以が、まさにここにあると存じます。
四、信行は一心より ― ともに歩む中道の道
信と行とは二つではありません。信は方向であり行は歩みでありますが、その二つは結局、一心より共に湧き出ずるものなのです。『涅槃経』にも、「信ありて解なくば無明増長し、解ありて信なくば邪見増長す」と説かれております。信と、それに対する正しい理解、そして実践とは、互いに離れることのできぬ一つの道なのであります。
一心三観の眼をもって眺めますと、信とは、空の智慧によって仮の現実を寛く抱きとる心の均衡であります。そして行とは、その均衡を失うことなく中道の道の上を黙々と歩んでゆく営みです。されば信行とは、現実に背を向けた修行ではなく、むしろ現実の只中にあって空・仮・中の三諦を一心に照らしながら生きてゆく、まさにその日常の修行にほかなりません。
もしかすると、私たちが向き合うこの岐路と物質文明の圧力、そして信と行のあいだに開いたその隙間さえも、実は一心三観が最も生き生きと働きうる、この上なく良き修行の現場であるのかもしれません。煩悩がすなわち菩提(煩惱卽菩提)と申しますように、私たちの置かれたこの時代の複雑さこそが、かえって天台の修行の深みを顕す舞台となるのでございます。
空を通して仮の世界を抱きとり、その抱擁のうちに中道の道を歩んでゆくこと ― これこそが、この時代において信と行が共に進むべき方向であると信じております。そしてこの道は、ただ一人の悟りをもって終わる道ではなく、自らと他者とがともに悟りを成じてゆく(自他一時成仏道)大乗の大いなる誓願へと連なる道でもあるのです。
どうか、このたびの第43回日韓仏教文化交流大会が、韓国と日本両国の仏教徒が、この中道の信行をともに胸に刻み、またとも に歩んでゆく尊き縁となりますことを心より祈念いたしまして、これにて発表を終えさせていただきます。


コメント